難波優輝さんのレビューを先に読んでしまったのでそのバイアスはかなりかかっている
山野弘樹『VTuberの哲学』(2024、春秋社)書評*機能についての不明点と研究態度へのコメント - Lichtung そして、多分私が読みたいのはVTuberの社会学の方だろうという興味があることは前置きとして
-
この本では個人勢VTuberの存在に多く触れられなかったことが弱点だと書かれているが、私はここは致命的な問題になりうると思った
-
“さらに、こうした第三のVTuberこそは、管見の限り、今日のVTuber文化をリードし、数多のトレンドを作り、その文化形成に大きな貢献を果たしている中心的なVTuberである”
- 単に数が多いものを哲学的な定義の中心にするのはどうなん、というのがまずある
-
単に制度的存在として扱えるものに範囲を絞ってるからVTuberは制度的存在である、と言えてるだけの気がする
- (これは私がサールの制度論に明るくないので勘違いしてるかもしれないが)
-
中盤の身体的存在(モデル/アバターと身体の同期)、倫理的存在(配信者とファンの間での応答)、物語的存在という分け方は整理としてはわかりやすいと思う。
- 関係ないが、名取さなが配信中に画面を邪魔しないようにアバターの縮尺を縮める時に痛がる演技をする話がTwitterで流れてきて、身体的存在の議論として面白い話題だった
- 難波さんも指摘してるが、最終章の芸術作品としてのVTuberの議論はとりわけ危うい
- 例えばアイドルや俳優の各個人に対して「彼/彼女自体がもはや芸術作品である」と言うのにはいろんなリスクがあると思うが、この本でVtuberを完全に虚構的な存在ではないと扱うのだとしたらそこを無視できない事になるだろう。
- それに、ファンや視聴者との共創で作られる作品の議論は2000年代初頭の古典かつ楽観的UGC論そのままであまりに反省がないと思う。
- ファンとVTuberの共創と言う形で制度としてのVTuberを語るとき、それを動かすプロダクションやYoutubeのようなプラットフォームは透明化される
- これはダントーやディッキーのアートワールドの悪いとこなのでベッカーのアートワールドの方も見たほうがいいと思う
- 結局この本では、商業・経済活動としてのVTuber活動についてあまりに考えてなさすぎると思う。そこに首を突っ込むと主題がVTuberの社会学になってしまうからやりたくないのはわかるが、商業活動として成立していて認知度が高いカテゴリを暗黙的に中心的存在として扱うのは誠実な立場ではないと思う。
- ビデオゲームの美学では名前の定義からアナログゲームは弾くけども、インディーゲームを弾くことはないわけでしょう
- 特に、この本で中心になるホロライブやにじさんじのような事務所を考えると、例えばカバー株式会社は社員400人ちょいで80人程度のライバーを抱えているわけで、それがファンダムによるイラストや曲を活動の中に超積極的に取り込んでいる姿は微笑ましくもあるものの、労働の搾取ではという思いを拭いきれないアンビバレンスが自分の中にある