という本が欲しいor読みたいorお前が書けという話。
およそ2か月で4回葬式を経験した2025年の初頭、物を燃やすことについて考えていた。
現代の火葬場って見た目が完全にエレベーターじゃんというか、燃えてるのに燃えているところを実際に見ず、燃えた結果だけを眺めるというのが奇妙に感じた。
というのも、DIY半導体をここ最近やっていて、実験をやろうとすると当たり前に500℃(酸化亜鉛の焼結温度)とか900℃(シリコンウエハに酸化被膜をつくる温度)とかが出てきて。これを実現するのが中々難しい(だからこそみんなTube Furnaceを自作するところから始めたりしてるわけで)。
日常生活では大体300℃を超える温度を扱うことはまあ難しい。ガスコンロの温度センサーが大体250℃に設定されてるのは油の発火点に由来するものだと思うけど・・・。
で、ちょうどお母さんは忙しくなるばかり 家事労働とテクノロジーの社会史-ルース・シュウォーツ・コーワンを読み始めていた。アメリカでは1800年代に暖炉からクローズドなストーブが導入される。ストーブは鋳鉄で作られるわけだけど、鋳鉄とか高温に耐えうる炉を作るにはそれ以上の温度を扱えるテクノロジーが必要になるわけで、ある程度の分業と細分化された産業という社会が前提になる。
と、ある程度の高温を効率よく扱おうとすると断熱で回りをどんどん囲っていくことになるので、炎が見えなくなっていくし、本当に高温になると煙が出なくなるので、燃えたことが認識できるのは燃えカスを見ることによってだけになる。
コーワンやのような家事テクノロジーにかかわる燃焼についての議論は多分他にもいろいろあるし、ナチスのキッチンの藤原さんは分解の哲学でごみの循環についても議論している。しかし家事における燃焼とごみ焼却における燃焼、あと火葬を全部燃やすという行為でつなげることにはなにか意味があるような気がする・・・・