#sexuality#writings

最近、時々プロフィールにdemiと書くようにしている。

これはまあデミセクシュアル/デミロマンティックのことを指して使っているのだけど、このdemiという接頭辞がなんなのかここ数年考え続けている。

デミセクシュアル/デミロマンティックという言葉を初めて聞く人のために説明すると、精神的な絆(Bond)が築かれた後に性的惹かれ(sexual attraction)を感じるのがデミセクシュアル、同様に精神的な絆が築かれた後でなら恋愛惹かれ(romantic attraction)を持つことがあるのがデミロマンティックと呼ばれる。

一般的にはアセクシュアル・アロマンティックスペクトラムの1つに数えられる。近しいものだと、性的惹かれ・恋愛的惹かれを感じる機会が稀である人のためのグレーセクシュアルグレーロマンティックという言葉もある。

Demiについて

デミセクシュアルという言葉がはじめて出てきたのは、一般的には2006年のAVEN(ACEのためのオンラインプラットフォームで一番歴史が長いもの)の掲示板でのことだそうで。

I have developed more detailed terms, though I’m still working on them. Primary sexual attraction is sexual attraction mostly based on physical attributes. An on-sight type of thing. Secondary sexual attraction is sexual attraction that only develops after in contingent upon emotional attraction developing first.

That actually sounds pretty accurate to me. So I’d have secondary sexual attraction, but hardly any primary. If “sexual” is for both and “asexual” is for neither, maybe we need a new term for people who only have one but not the other?

I propose “demisexuals”. ^^

Asexual sex - Members Questioning - Asexual Visibility and Education Network

それに対応して、デミロマンティックという言葉も生まれて、という流れだ。一応、agenderに相当するdemigenderというのも有るのだそうだけど、これは日本だとほぼほぼ聞かないかも。

とはいえ、日本ではそもそもdemiの知名度自体まだまだ低いし、英語圏を含めても、例えばデミがキャラクターの表象として現れたりすることは、まーほぼない。クィア・アイの最新シーズンではデミセクシュアル・バイロマンティックを名乗っている人がいたけども。

学術的な方向でも、ようやくAro/Aceが「ACE アセクシュアルから見たセックスと社会のこと - アンジェラ・チェン」や、つい最近でた「Ending the Pursuit- Asexsuality, Aromanticism & Agender Identity - Michel Paramo」などでようやく議論の土台が固まってきたところという認識で、個別の論文レベルならともかく書籍レベルでデミセクシュアル・デミロマンティックが議論の中心になったものはない(はず)1

自分がデミについて知ったのはたしか2018年。なにをきっかけに知ったのかはもう忘れたんだけど、一応当時も日本語で解説してるWebサイトがどっかにあって、なんじゃこりゃと思った記憶がある。それよりも覚えていることは、今もインスタを中心に漫画でLGBTQ+を漫画で解説しているパレットークというメディアがあるのだけど、当時はインスタなどではなくPaletteQという、セクマイ関係の話題を匿名で相談できる知恵袋みたいな独自のコミュニティアプリを運営していた。デミの話題は多くはないけど無いこともなかったので、私もそこにアカウントを作り、2、3質問をしてみたことがある。そこでも具体的にどんなことを書いたかまでは覚えてないのだけど、反応してくれた人が当たり前にデミの概念を知っていること、話に共感してくれるというそれだけで相当新鮮な気分になったのを覚えている。

ところで、なんで質問した内容を覚えてないかというと、PaletteQは気づいたらサービスを終了していたからだ。そもそもPaletteQがオープンしてからクローズするまでわずか半年少ししか続かなかったことは後になって知ったのだが、それにしたって終了の告知からわずか1ヶ月で全てのサービスがクローズしてしまい、自分が何を話したか振り返ることもロクにできなかったのは言いしれぬ喪失感があった。

あれ、もちろんベンチャーの事業としての収益性の見込みは低かったと思うけど、マイノリティが対象で、コミュニティを運営するというのをそんなに軽い気持ちではじめてサクッとピボットして欲しくはなかったなあ、きちんと続けていればAVENに相当する、安全で信頼できるつながりを作れるポテンシャルとかあったんじゃないかなあという気持ちと、Qが存在したことで助けられた気持ちとがあるので、感謝の気持ちと裏切られた気持ちとが同居していたりする。あの時質問に回答してくれた人は今どこで何をしているのだろうか。

(本論から逸れたが、これだけはいつかどこかで書いておかなければいけないと思っていたので…)

「ない」類型としてのDemi

2018年当時はデミという言葉自体がACEコミュニティの中から出てきたことを知らなかったこともあって、自分に当てはまるところが多いなとは思いつつ、デミがAce/Aroのスペクトラムのひとつに分類されるという説明が相当疑問だった。

それは自分の惹かれの経験は「稀に”有る”」という認識だったからなのだと、今にしてみればわかる。チェンの本でも最初に書かれていることとして、Aro/Aceの人は自分たちに「”無い”」概念を言葉にすることにまず苦慮することになる、という話がある。「多くの周りの人と違って性的惹かれや恋愛的惹かれを覚える対象が”違う”」「出生時に割り当てられた性別と自認する性が”違う”」という、差分によって違和感を覚える経験と比べると、そもそも自分が違和感を覚えたりモヤっとしていること自体が無化しやすいということになるだろう。

一方で、Demiの悩みの多くはAro/Aceとも共通するものではありつつも、いわゆる「好きになった時には友達枠認定」問題のような、アロー(Aceと逆に、フツーに恋愛的惹かれや性的惹かれを経験する人)も共感しやすい”有る”が故の悩みにであることもあって、全てが”無い”に起因する困難というわけでもない。

ところで、この「無い」をわかりやすく人に伝えようとすると、往々にしてAro/Aceの表象は「何かが欠けた人」だったり「子供っぽい」「冷たい/ロボットのような/サイコパスっぽい」ものになりがちだということもよく話題に上がる。

2018年から比べて変わったこととしては、日本でもドラマや映画でAro/Aceが題材になったものがいくつか出てきたことがあるが、「恋せぬふたり」も「そばかす」(どちらも2022年)どちらも正直そういうとこあるよな〜と思いつつ。(もちろんそうでない例もある。「つくたべ」の矢子さんとかは多分その辺り意識して描かれてるなと思うし、非常に好きなキャラ。)

まあつまりステレオタイプの話なのだけど、デミを話題にすることの難しさとは、「ないこともない」を言葉にするということで、とにかく中途半端なのだ。ステレオタイプを作ることすら難しい。あったりなかったりする半端さはときに「無い」こと以上に言葉にすることが難しい。

言葉作る意味、ある?

ここまで読んで、じゃあ、そもそもそんな言葉使う意味ある?という疑問が浮かんでくるかもしれない。ごもっとも。デミの言葉を使ってないが、デミとして読める(クィア・リーディングができる)ストーリーやキャラクターは沢山ある。(例えば最近の自分の中では「違国日記」と「2.5次元の誘惑」がトップ2ですが)

Demisexuality Resource CenterというWebサイトにもこんな説明がある。

Another thing to remember is that you don’t necessarily have to use the word demisexual. You can explain that you simply don’t feel sexual attraction until you develop a close bond with someone. This can be a way to ease into the conversation without bringing labels up right away.

もう一つ覚えておいてほしいのは、必ずしもデミセクシュアルという言葉を使う必要はないということだ。単に誰かと親密な絆が築かれるまでは性的惹かれを感じない、と説明することはできる。ラベルを持ち出すことなく気楽に会話する方法となるだろう。

Coming Out As Demisexual – Demisexuality Resource Center

じゃあデミというマイクロラベル2になんの意味があるのかという話だが、LGBT含む様々なラベルがそもそも人をカテゴライズするためにあるわけではない、という考え方を導入する必要がある。

別の言い方をすると、アセクシュアル/アロマンティック/デミセクシュアル/デミロマンティック/Aジェンダー/デミジェンダーのような人たちが本当に実在するかのかどうか、を問うことにはさほど意味がない

なぜなら、Aro/Ace/Demiの人が実在しようがしまいが、「パートナーができたら普通はセックスをする」「パートナーがいない人は可哀想である/何かしら人間性に問題がある」に連なる社会のフツー3に馴染めずに困った少なくない人たちの経験は確かに”有る” からだ。

少なくとも、「これって自分だけがおかしいのか?」と思った体験が人類の中で2人以上が共通して経験していることである、ということがわかるための旗印としてラベルは機能する。“無い”を言明するのが難しくても、無いことに起因するネガティブな経験の”ある”が共通していれば話ができる。

だが一方で、「フツー」の恋愛・性愛感に馴染めなかった人の全てが、性的惹かれ/恋愛的惹かれを全く経験しないというわけではない。二重否定だらけで難しいが、そもそものAro/Aceに対してもありがちな誤解(Aceの全ては人生で一度もセックスをしたことがない、あるいは性嫌悪とごっちゃになっている…など)でもある。これまで自分の性的/恋愛的惹かれの経験が”有る”という認識で生きてきた人でも「フツー」に対してちっともピンとこないパターンも全然あり得る。

また、アセク・アロマのつもりでやってきたけど、ある日性的惹かれや恋愛的惹かれを経験した時に、自分の信じてきたものやコミュニティを裏切ってしまったような気持ちになったり、なにを信じればいいかわからなくなることだってあり得る。デミやグレーのようなラベルがあることはそういう時の救いにもなるかもしれない。

ともあれ、なんだかわからんけど世界の側が幸せだのかわいそうだの決めてくるのはやっぱおかしいじゃん、という発言自体は否定する人あまりいないと思う。それがおかしいと思ってる人がいることが可視化されるというだけでも、デミというラベルを身につけることは意味はあるんじゃないの、と最近は思うようになってきている。

両極に働きうる「それはフツーだよ」と、社会運動の一部としてのDemi

Aro/Aceが典型的に経験するものと共通していて、デミの場合にことさら難しい反応を迫られる言葉が「それは普通のことだよ」「それはおかしなことじゃない」というアドバイス(?)であろう。

これは、全く同じ言葉であってもその話の文脈によって全く逆の意味合いに分裂する。

「仲良くなってからじゃないと好きにならないなんて普通のことじゃん」というのは言ってる側からすると悪気のない言葉なのはわかっている。だがこれはどちらかといえば現状の「フツー」を維持する、デミのモヤモヤしている対象自体をなかったことにする方向に働く。

(もちろん人によるけど)次に続くアドバイス(?)は「ちょっと”重い”んじゃない?」みたいな言い方だったり、下手すりゃ「自分を無理にマイノリティにラベリングして特別扱いされようとしてる、目立とうとしてるんじゃない?」みたいなことになったりする。

前者の問題は、自分は「重い」やつなのだ、と言われることによって、アローロマンティックの中でも自分は特別恋愛感情が強い方で、だからこそ余計な拘りを持ってしまっていて上手くいかない、という内面化につながる。これもDemiがAro/Aceのスペクトラムに分類されるときに(え?むしろめちゃ恋愛体質だが?)みたいな違和感を覚える要因になりうる。

後者の発言はちょっと慎重に考えておきたい。Demiのような、おそらくシスヘテロの人の中でも実際には当てはまると思う人たちが積極的にDemiを名乗るようになると、それは既存のマイノリティの居場所をマジョリティが簒奪することになりかねないのではないか、という話だろう。こうした心配は他のマイクロラベル…最近だとサピオセクシュアル/ロマンティックやフィクトセクシュアル/ロマンティックに対しての「それは好み(preference)の話でしょ」と言われがちなことも、無縁でいられないと思う。もっというと非モテやインセルの話もそう(その辺りはチェンの本でも触れられているけど)。

確かに、こうしたマイクロラベルを社会運動の文脈で捉えた時にはぶつかる可能性がないわけではない。例えばAro/Ace/Demiが「フツー」に抗していこうとなると、制度、規範としての結婚はとっとと無くなった方がいいんじゃないか、という話になってくる。かといって、ではMarrige for Allを掲げている人々の目の前で正面切って「婚姻制度自体そもそも要らなくない?」と言えるだろうか。

だからこそ「最小の結婚(エリザベス・ブレイク)」のような提案が出てきたりもするわけだけど、根本としてはなんとなくみんなが共有している「フツー」がいつの間にか社会制度とかにも反映されていて、謎の不利益を被ったり権力勾配が存在することになったりしている、という前提を共有することができれば、シスヘテロのDemiも一緒に声を上げる側の一員になりうるだろう。

マジョリティを引き込むためのDemi

というよりも、一番ここが重要だと思うのだが、Demiというラベルは「自分はシスヘテロだからマジョリティのアライとしての立場で」マイノリティと連帯して行動する、という構図自体に疑問を投げかける役割があるんじゃないだろうか。

アライとしての態度はもちろん必要なことだと思うんだが、どうしても誰かが不条理を経験する社会を構成している一因である=自分も当事者の一人であるという意識を遠ざけてしまう、マイノリティはあくまで他者であるという意識を作ってないだろうか。本当に今まで生きてきて一度たりとも、なぜか恋愛をしないやつは可哀想なやつである、みたいなことに疑問を一度も覚えなかった人はいるのだろうか。(まあ、いるんだろうけど…)

Demisexual/Demiromanticという言葉を私が知った時に感じた違和感は、「それってフツーのことじゃなかったの、おかしなことなの?」というものだった。それはまあ半分は合っているんだけど、正面切ってそれってフツーのことだよね、と言い張る自信はなく。うっすら自分にそのラベルが付くことへの不安があったのだ。

5年近くぐだぐだと考えてきた結果、結局違和感のもう半分は「自分もマイノリティの側にカウントされなきゃいけないの?」という恐怖にあったのだという結論になった。自分ではアライのつもりでいたけど、「マイノリティ=可哀想」の意識が全然染み付いていた。いろんな不利益があるからそれに抗うためのツールとしてのラベルがあることを理解してさえ、ラベルがあるからかわいそうなのだというありがちな逆転した理解を外せていなかった。

それを認識した後でさえ、友達でも、オンライン上のコミュニティであっても(Demiという言葉を使うにせよしないにせよ)自分はどう性愛/恋愛規範を捉えているかを表明する、表に出す、もっというとカムアウト?するのに相当なハードルがある。もしかするとそれはレズビアンやゲイ、トランスという言葉が今ほど受容されてなかったり、その言葉がそもそも存在しなかった時代に自分のことを説明するときの恐怖にそれなりに近いのでは、と思うことはある。

…もちろん、今のトランスヘイトの状況の度し難さを見てしまうと、Aro/AceやDemiを表明することが直接的に生存を脅かすような自体になることはあまりなさそうだし、自分にはトランスの苦しみがわかる、などと言うつもりは全くない。ただ一方Aro/AceやDemiの場合でも例えばレイプの正当化や事実の無効化(「これはあくまでお試し/訓練だから」)のような生命の危機に近い問題につながる場合もあるわけで、Aro/Aceの問題の方が軽いとか重いとかいうことでもない。

自分が当事者であると言うにはおこがましい、と未だに思ってしまう。しかしその「おこがましさ」は自分が安全地帯にい続けていることの逆説的証明でもある。

すなわち、やや大袈裟にいうと、Demiという言葉の一つの役割は、「自分はシスヘテロなんで」というマジョリティの側にいると思っている人たちを引き込むということなんじゃあないかと思う。

性愛規範に疑問を抱く人の全てがAro/AceやDemiという言葉を使う必要はない。やっぱり自分の考えの確かさに自信を持つまでには時間もかかるし。でも、アクティビズムにもきっといろんな形があり、人生に関わる選択をした人がすぐ近くに存在する、ということはきっとデモや署名とは異なる形で他者の考え方を変えうる力があると思う。ここ数年で読んだ記事の中だとこの辺とかね。

そんで、色々考えた末に、Demiに限らず何かしらのアイデンティティを名乗ることが誰かにとっての助けになるかも、と思えるようになったらその時はぜひ行動してほしい。(そして、この文章を最後まで読んでくれた人は私が行動するべき時にちゃんと行動できているか見張っといてほしい。)


そもそもいきなりなんでこんな話をしてたかって言うとですね、2/18〜2/24はアロマンティック・スペクトラム・アウェアネス・ウィークっていうのがあります。

興味が湧いた人は町で緑色の何かを身につけている人がいないか見回してみるとか、漫画とか映画を見るとか、本を読むとかぜひしてみてください。

ACEが読むと面白いかもしれない漫画、映画、ドラマとか

ACE アセクシュアルから見たセックスと社会のこと - アンジェラ・チェン

最小の結婚 結婚をめぐる方と道徳-エリザベス・ブレイク

Ending the Pursuit- Asexsuality, Aromanticism & Agender Identity

Footnotes

  1. 論文レベルでも今のとこタイトルに冠したものとかは無いと思うのだけど、誰か知ってたら教えてください。

  2. LGBTQIA+だけで話しきれない様々なアイデンティティはマイクロラベルと呼ばれたりもする。どんなのがあるか興味がある人はAUREA(アロマンティックのサポート団体)のWebサイトにあるアイデンティティターム一覧 を見てほしい。多分想像してるのの5倍くらい量がある。

  3. 難しめの言葉では性愛規範性(amatonormativity)とか強制的恋愛(Compulsory Romanticism)とか言ったりする。なおこの「フツー」という言葉はアンジェラ・チェンのACE本出版記念イベント「フツーの恋愛・性愛ってなに?」でタイトルに冠されていたものをお借りした。イベントレポートは次のURLより。フツーの恋愛、性愛ってなに?『ACE アセクシュアルから見たセックスと社会のこと』刊行記念トークレポ | me and you little magazine & club